リレーエッセイ

第1回「アドラーの先見性 子どもの発達とアドラー心理学」

常任理事 佐藤 丈

 個人心理学会ではかねてより、HPでアドラー心理学を実践(カウンセリング・教育・医療)の場でどのように生かしているのか、あるいは大学などの研究の現場ではアドラー心理学の何について、どのように研究されているのか、等についてエッセイで読者にお伝えしていこうというアイディアがありました。


 今回、10月31日(土)にZOOMで行われる研修会に先立ち、その研修会で講師を務めさせていただくことになった佐藤が、記念すべき第1回に執筆させていただくことになり、このアイディアを実現することになりました。


 私は30年あまり小学校で教鞭をとり、今も八ヶ岳南麓の小さな小学校で特別支援学級の一担任として、子どもたちと日々喜怒哀楽を共にしています。30年の間、学校では、学校週五日制、生活科・総合的な学習の時間の導入、生きる力の育成、特殊教育から特別支援教育へ、教育基本法、関連法の改定、いじめ防止対策推進法、特別の教科道徳・外国語活動・英語科の導入、主体的・対話的で深い学び・・・などなど様々な「教育改革」が試みられてきました。しかし顕著に変わったことと言えば、私が教員になったばかりのころにはまだ見られた子供への体罰や暴言がずいぶん影を潜めた、ということでしょうか。それだけでも大いに成果はあったと評価はできますが、相変わらず「不登校」という学校というシステムに対して心身両面において「NO」を突き付ける子どもが減るどころか増えてしまっていることが実情です。ただ、不登校に対する考え方についてはずいぶん変わってきたように思います。その一つに「学校に合わない子ども」という考え方から「子どもに合わない学校」という考え方へ徐々にシフトしてきたように感じます。子どもを合わせようとするのではなく、どのような配慮をすればその子どもは学校に来るようになるだろうかと、考える教員が増えてきているということです。つまり、学校主体から子ども主体、子どもの発達や特性、個性に応じた指導のありかたを考えることが求められるようになってきたということです。 しかし、このような視点は決して今に始まったものではなく、アルフレッド・アドラーによって、今から90年も前に指摘されていたものです。『個人心理学講義』(2012岸見一郎訳 アルテ)より以下に引用します。

 
 「学校の多くの子どもたちは、一つの感覚しか楽しむことができないという理由で、一つの情報だけしか教えられない。聞くことだけが得意であったり、見ることだけが得意であったりするのである。いつも動いたり、活動しているのが好きな子どももいる。(この)三つのタイプの子どもたちに、同じ結果を期待することができない。とりわけ教師が教える方法として、一つの方法、例えば、聴覚型の子どもに適した方法を好めば、同じ結果を他のタイプの子どもに期待することはできない。このような方法が用いられれば、視覚的な子ども、行動型の子どもは、苦しむことになり、発達が妨げられるであろう。」


 いかがでしょうか。現代の学校ではまさにこのことが課題になっていて、ユニバーサルデザイン(以下UD)に基づいた授業づくりとして、視覚・聴覚・感覚運動をバランスよく取り入れた授業が工夫されてきています。京都教育大学の佐藤克敏によればUDを教育に適用する際「原則に従えば、基本的には身体機能・認知機能などに関する個人の負担が少なく、さまざまなモード(視覚、聴覚、触覚など)による多様なアクセシビリティが提供されており、安全かつ快適に利用しやすいデザインがなされている。」(『ユニバーサルデザイン授業~発達障害等のある子どもを含めて、どの子にもわかりやすい授業』京都府総合教育センター)ことが求められていると指摘しており、これはまさにアドラーが指摘した点そのものだと言えます。


 私は、ヒューマン・ギルド(岩井俊憲代表)の研修室を長年お借りして「朝の勉強会」を続けてきました(今年度はコロナの影響でZOOMでの開催)。そこでアドラーの著書を輪読するたびに、アドラーの先見性には驚かされることが度々あります。現代の学校で何らかの問題が起こり、その解を求めた時、答えはたいていアドラーの宝箱の中にあるように感じます。


 さて、10月31日(土)には研修会で「子どもの発達とアドラー心理学」と題してこのエッセイをさらに深め、特に自閉症スペクトラムやHSCとしてとされる子どもの視点から考えた学校や、支援のありかたについて、実践に基づいたお話ができればと思っています。また、皆様からもお考えを聞かせていただけたらとも思っていますので、どうぞたくさんの方にご参加いただきたいと思っています。よろしくお願いいたします。