リレーエッセイ

第3回「69th NASAP Annual Conference への参加・発表を通じて得られた学び」

加藤 慧 (東京外国語⼤学⼤学院)

 今回、2021 年 5 ⽉ 28 ⽇深夜から 5 ⽉ 30 ⽇明朝(⽇本時間)にかけて、アメリカウィスコンシン州ミルウォーキーにて開催された北⽶アドラー⼼理学会(NASAP)第 69 回⼤会に参加及び発表をしてきました。

 昨年は COVID-19 の影響によりオンラインのみでの開催でしたが、今年は特にアメリカの⽅ではワクチン接種が進んだことにより、対⾯もしくはオンラインのどちらかを選ぶハイブリッド⽅式で⼤会が開催されました。当然現在は、COVID-19 の影響によりアメリカ含め国外への移動もままならない状況です。また、対⾯での開催となると旅費・参加費・宿泊費、さらには⽇程の確保等も必要となり、私のような学⽣の経済状況からすると⼤変厳しいものがあります。しかしオンライン参加であれば、旅費・宿泊費がかからず、時差さえ考慮すれば⽇程の調整も容易なので⼤変参加しやすいと感じました。今回このように対⾯もしくはオンラインという選択肢を⽤意していただいた NASAP の関係者様には、頭が下がる思いです。

 ⼤会の参加費は、今年の場合であれば学⽣は対⾯・オンライン問わず 100$、学⽣以外は対⾯の場合は 300$、オンラインの場合は 250$でした。参加費は決して安くありませんが、NASAP は⼤会参加者を対象に奨学⾦を⽤意してあり、選考に通れば参加費が免除されます。ありがたい事に、私は対象者として選ばれ参加費を免除していただけました。

 今回の⼤会テーマは“Social Justice: Community Healing through  Movement”であり、私は今回が NASAP の⼤会への初参加でしたが、運良く発表原稿が受理されたため、⾃分の研究に関する⼝頭発表も⾏いました。今回の発表テーマは“Adler's New Courage Model and its Effect on English Education in Japan”であり、これは私のアドラー理論研究 (加藤, 2020) を紹介するとともに、その実践に関して、私の研究分野の⼀つである英語教育を事例として取り上げるというものでした。

 私の発表への⼈⼊りはあまり芳しくなく、少し寂しい結果に終わりましたが、60 分近い時間を英語で発表を⾏ったという経験及び、今回の発表資料の作成(アウトプット)を⾏ったことで、改めて⾃分の研究について⾒直すことができ、それだけでも⼤変収穫の⼤きい発表の場となりました。反省点を挙げるならば、NASAP はカウンセリングやセラピストといった臨床畑の⽅々が多く集う学会なので、発表内容をもっとそちらに寄せて作るべきだったと感じました。⼀⽅で、私が発表を⾏った時間帯は⽇本では⾦曜⽇の深夜でしたが、現地では⾦曜⽇の朝早い時間帯だったので、全体的にその時間帯は⼈⼊りが多くない傾向にあったようです。いずれにせよ⼤変良い経験になりました。

 こうして⾃分の発表も無事終わったので、その後は晴々とした気持ちで他の⽅々の発表を聞きました。発表は様々ありましたが、特に個⼈⼼理学会第 1 回⼤会にて講演をしてくださった Jon Sperry 博⼠の発表と、私の専⾨分野でもある、古典アドラー⼼理学の観点から、深層⼼理療法に関する紹介をしてくださった Eric Mansager 博⼠の発表が深く印象に残りました。

 Sperry 博⼠の発表は、“ The Past, Present, and Future of the Journal of  Individual Psychology”という題⽬で、NASAP の学会誌である、Journal of the Individual Psychology へ の投稿の⼿引きに関する説明及び、学会誌への国別アクセス数なども紹介されていました。Mansager 博⼠の発表は、“Classical Adlerian Psychotherapy in Action”という題⽬で、博⼠が専⾨とされる⼼理療法である、Classical Adlerian Depth Psychotherapy (CADP)に関する紹介を、同僚の研究者の⽅達と合同による、シンポジウム形式で⾏われていました。

 このように、普段学会誌でよくお⽬にかかる、私からすればスター的存在である先⽣⽅の発表を直接聞くことができたのは、とても良い経験になりました。特に Mansager 博⼠の優越性の追求を巡る諸議論を整理した研究 (Mansager & Griffith, 2019) について、その論⽂を初めて読んだ際に感銘を受けたので、オンライン越しではありますが、こうして直接発表を聞くことができたのは⼤変感慨深いものがありました。

 このように⾮常に学び深い場となった⼀⽅で、対⾯とオンラインが混在したハイブリッド型だからこそ⽣じる難しさについて実感する場⾯もありました。たとえば、発表者が⼤会会場で発表を⾏う場合は、⼤会側の Zoom アカウントを使って投影機によって映されているスライドをパソコンのカメラで写すことがありましたが、その際にピントがずれてスライドがよく⾒えないということが何度かありました。また接続不良により発表者がルームから退室して接続し直すこととなり、他の参加者がルームに取り残されたまま時間が過ぎるというような場⾯にも遭遇しました。

 このようにハイブリッド型であるが故に起こるトラブルもありましたが、この種のトラブルは、今回だけに限らず現代のオンライン環境下では往々にして起こる出来事であります。むしろこれらのトラブルに直⾯した際に、参加者の⽅々が怒る素振りを⾒せることなく穏やかに過ごしていただけでなく、発表者が不具合のため⼀旦退出して戻ってくるまで時間が空いたような場⾯では、参加者間で和やかな会話が交わされることもあり、さすがはアドラー⼼理学に精通した⽅々が集った学会だとこの⾝をもって感じました。

 以上より、今回第 69 回 NASAP ⼤会への参加を通じて、⾃分の研究を改めて⾒直すことができただけでなく、アドラー⼼理学に関する新たな⾒識を深める機会を得られたという点において、今回の学会参加は⼤変意義ある会となりました。NASAP ⼤会に関して、アドラー⼼理学および臨床⼼理学に関して⼀定の知識を有している⽅であれば、発表はせずとも参加するだけで多くの学びが得られることと思います。

今回の学会参加を通じて得られた学びをいかし、アドラー研究および個⼈⼼理学会の発展に寄与できるよう、⾃⾝の研究および学会活動により⼀層励んでいきたいと思います。

第2回「あらためて今、「勇気」について考えてみる」

事務局長 八巻 秀(駒澤大学)

 この1年間で、コロナ・ウィルスの感染拡大によって、世界の情勢は大きく変わりました。そのことについては、あらためてここで言うまでもないでしょう。

 2020年3月に開催される予定であった日本個人心理学会の第1回大会も、このコロナの影響で、1年延期され、そしてこの3月6日(土)〜7日(日)にオンラインに切り替えて、開催されようとしています。

大会テーマは「アドラー心理学における『勇気 Courage』について考える」。
 アドラー心理学における様々な考え方や技法は、現代の様々な場面・局面で使われ続けています。ただし、それがアドラー心理学を参考にしたという言及が、不思議なことになされていないことが多いのが実情です。精神医学者のアンリ・エレンベルガーが、著書『無意識の発見(下)』(弘文堂)の中でも「彼(アドラー)の学説は、『共同採石場』みたいなもので、だれもがみな平気でそこからなにかを掘り出してくることができる。(p.271)」と述べているように、アドラー心理学は、今もなお現場で使える原石が眠っている共同採石場なのです。それは臨床心理学だけでなく、教育心理学や哲学など様々な学問において活用できる、再認識されるべき「古くて新しい心理学」だと思います。その共同採石場の中にある多くの原石の中で、記念すべき日本個人心理学会第1回大会では「勇気」を取り上げてみました。

 さて、この時点で個人心理学会の記念すべき第1回のテーマに「勇気」を選んだのはどうしてだったかを思い出します。
『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)のベストセラーによって、アドラー心理学が世の中で注目されたことは、アドラー心理学を志向する者にとって、大きな励みになった部分は大きいでしょう。一方で誤解を生んでいることも確かです。「勇気」という言葉もその1つです。
 4年前に『嫌われる勇気』のAmazonカスタマービューを何となく眺めていたところ、偶然以下のような文章を見つけました。少し長いですが、引用してみます。

 

~~~

 私は中学の頃から今に至るまでずっとうつ病で中高大と不登校で、人生で3回も学校を中退しました。思い当たる原因はたくさんあるものの、インパクトが大きいもので言えば小学校の頃の母の死と父に受けた虐待あたりでしょうか。

 これをアドラー流に言い直すと「社会に出るのが怖くてそうしないようにするために、うつ病になったりトラウマを持ち出している」ということになります。
 ところで実は、もちろんその当時アドラーの思想など知る由もなかったのですが、中学の頃からトラウマだとかを言い訳に何かをしないなんて人間でありたくない、過去にあったことで全て未来が決まるということはないはずだ、ということを思っていました。
 結果どうなったか。うつ病は更に悪化し、無理を強いたが故に今に至るまで1ヶ月ほど寝込んで本当に何もできないということが2度ほどありました。

 さて、ここでまたアドラー流に言い換えてみましょう。
 うつ病が悪化したのも寝込んだのも社会に出たくないからだ。おそらく大きくは間違っていないでしょう。しかしここで、この本に書かれているように、だからこそ勇気を出してやるんだ、と言われたらどうでしょうか。究極的に先に待つのは過労死か自殺かしかありません。

 それすらもアドラー流に言い換えれば、社会に出たくないから死んだ、となってしまいます。これではまるでブラック企業の煽り文句です。

~~~


 このレビューを書いた方のように、様々な心の病が“勇気”がないから起こっている、だから“勇気”を出すんだ、と考えることは、辞書的な意味の“勇気”とアドラー心理学の「勇気」の意味を全く同じものと捉えてしまっていると思います。臨床心理士としてカウンセリング活動に携わっている者として、「アドラー心理学の『勇気』は、日常で使われている“勇気”とは、同じ言葉ですが、違う意味なんですよ!」と声を大にして伝えたくなります。
 では、アドラー心理学の「勇気」は、いったいどう定義するのでしょうか。
先日1月中旬に、オンラインで行われた「個人心理学会会員の集い」で、講師を務められた早稲田大学の向後千春先生が、「勇気は共同体感覚の一面に過ぎない」というアドラーの言葉を引用しながら、「勇気」とは「所属している・価値があるという感覚」と定義して、「ある働きかけをして、その人が所属と価値の感覚が生じた時、その働きかけ・関わり方を『勇気づけ』と呼ぶ」と述べて、「勇気づけの操作的定義」を示してくださいました。
 なるほど、アドラー心理学における「勇気」とは、このように当の本人の中から湧き上がってくるものなのですね。ですから「勇気」は「出す」ものではなく、「出てくる」ものなのだと、あらためて思いました。そして個人的には、この「勇気」は、人と人の関わりの中で(社会構成的に)生まれてくるものではないか、とも考えています。このような現代において、「勇気」が湧き出てくること・高まること、とはどのようなものなのか、どうしたら高まっていくのか、さらに考え続けていきたいですね。
 今度の日本個人心理学会第1回大会では、3月7日(日)の午後に、この「勇気」に関する大会シンポジウムが行われます。現代におけるアドラー心理学の「勇気」をどう捉え、どのように日常の実践に取り込んでいくのか、シンポジストの皆さんや参加者の皆さんとともに面白い議論が展開されそうで、今からとても楽しみです。オンライン開催ですから、皆さんもどうぞお気軽にご参加ください。

第1回「アドラーの先見性 子どもの発達とアドラー心理学」

常任理事 佐藤 丈

 個人心理学会ではかねてより、HPでアドラー心理学を実践(カウンセリング・教育・医療)の場でどのように生かしているのか、あるいは大学などの研究の現場ではアドラー心理学の何について、どのように研究されているのか、等についてエッセイで読者にお伝えしていこうというアイディアがありました。


 今回、10月31日(土)にZOOMで行われる研修会に先立ち、その研修会で講師を務めさせていただくことになった佐藤が、記念すべき第1回に執筆させていただくことになり、このアイディアを実現することになりました。


 私は30年あまり小学校で教鞭をとり、今も八ヶ岳南麓の小さな小学校で特別支援学級の一担任として、子どもたちと日々喜怒哀楽を共にしています。30年の間、学校では、学校週五日制、生活科・総合的な学習の時間の導入、生きる力の育成、特殊教育から特別支援教育へ、教育基本法、関連法の改定、いじめ防止対策推進法、特別の教科道徳・外国語活動・英語科の導入、主体的・対話的で深い学び・・・などなど様々な「教育改革」が試みられてきました。しかし顕著に変わったことと言えば、私が教員になったばかりのころにはまだ見られた子供への体罰や暴言がずいぶん影を潜めた、ということでしょうか。それだけでも大いに成果はあったと評価はできますが、相変わらず「不登校」という学校というシステムに対して心身両面において「NO」を突き付ける子どもが減るどころか増えてしまっていることが実情です。ただ、不登校に対する考え方についてはずいぶん変わってきたように思います。その一つに「学校に合わない子ども」という考え方から「子どもに合わない学校」という考え方へ徐々にシフトしてきたように感じます。子どもを合わせようとするのではなく、どのような配慮をすればその子どもは学校に来るようになるだろうかと、考える教員が増えてきているということです。つまり、学校主体から子ども主体、子どもの発達や特性、個性に応じた指導のありかたを考えることが求められるようになってきたということです。 しかし、このような視点は決して今に始まったものではなく、アルフレッド・アドラーによって、今から90年も前に指摘されていたものです。『個人心理学講義』(2012岸見一郎訳 アルテ)より以下に引用します。

 
 「学校の多くの子どもたちは、一つの感覚しか楽しむことができないという理由で、一つの情報だけしか教えられない。聞くことだけが得意であったり、見ることだけが得意であったりするのである。いつも動いたり、活動しているのが好きな子どももいる。(この)三つのタイプの子どもたちに、同じ結果を期待することができない。とりわけ教師が教える方法として、一つの方法、例えば、聴覚型の子どもに適した方法を好めば、同じ結果を他のタイプの子どもに期待することはできない。このような方法が用いられれば、視覚的な子ども、行動型の子どもは、苦しむことになり、発達が妨げられるであろう。」


 いかがでしょうか。現代の学校ではまさにこのことが課題になっていて、ユニバーサルデザイン(以下UD)に基づいた授業づくりとして、視覚・聴覚・感覚運動をバランスよく取り入れた授業が工夫されてきています。京都教育大学の佐藤克敏によればUDを教育に適用する際「原則に従えば、基本的には身体機能・認知機能などに関する個人の負担が少なく、さまざまなモード(視覚、聴覚、触覚など)による多様なアクセシビリティが提供されており、安全かつ快適に利用しやすいデザインがなされている。」(『ユニバーサルデザイン授業~発達障害等のある子どもを含めて、どの子にもわかりやすい授業』京都府総合教育センター)ことが求められていると指摘しており、これはまさにアドラーが指摘した点そのものだと言えます。


 私は、ヒューマン・ギルド(岩井俊憲代表)の研修室を長年お借りして「朝の勉強会」を続けてきました(今年度はコロナの影響でZOOMでの開催)。そこでアドラーの著書を輪読するたびに、アドラーの先見性には驚かされることが度々あります。現代の学校で何らかの問題が起こり、その解を求めた時、答えはたいていアドラーの宝箱の中にあるように感じます。


 さて、10月31日(土)には研修会で「子どもの発達とアドラー心理学」と題してこのエッセイをさらに深め、特に自閉症スペクトラムやHSCとしてとされる子どもの視点から考えた学校や、支援のありかたについて、実践に基づいたお話ができればと思っています。また、皆様からもお考えを聞かせていただけたらとも思っていますので、どうぞたくさんの方にご参加いただきたいと思っています。よろしくお願いいたします。